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農医連携教育研究センター 研究ブランディング事業

15号

情報:農と環境と医療15号

2006/7/1
農?環?医にかかわる国際情報:5.国際土壌科学会議?土壌と安全食品と健康?
はじめに

地球は病んでいる‐それもほとんど回復できないほどに‐。このことを早くも1912年にはっきりと見てとっていたのは、ノーベル賞受賞者アレキシス?カレル博士であった。この著名なフランスの科学者は、「人間‐この未知なるもの」という本の中で次のように警告している。土壌が人間生活全般の基礎なのであるから、私たちが近代的農業経済学のやり方によって崩壊させてきた土壌に再び調和をもたらす以外に、健康な世界がやってくる見込みはない、と。生き物はすべて土壌の肥沃度(地力)に応じて健康か不健康になる、とカレルは言う。すべての食物は、直接的であれ間接的であれ、土壌から生じてくるからである。

この文章は、「土壌の神秘」の著者ピーター?トムプキンスとクリストファー?バードが著した「土壌の神秘」の序論の冒頭に記されている。

今日、多くの土壌は酷使?消耗され、そのうえ合成化学物質が添加されているから必ずしも健全な状態にあるとは言い難い。そのため食物の質が損なわれ、ひいてはわれわれの健康も損なわれかねない状況にある。栄養失調も栄養のアンバランスも土壌から始まっているといって過言ではない。

幼い子のはずむような健康は、その子たちの体によい食物に依存していることに間違いはないが、土壌中の成分が植物、動物、人間の細胞の代謝をコントロールしている、とカレルは言う。病気のほとんどは、空気や水や食物の中に‐しかも最も重要なのは土壌の中に‐ごく微量存在しているミネラル類の間に行き渡っている調和が破壊されることによって生じるのである。

カレルは「文明が進歩すればするほど、文明は自然食から遠ざかる」とも言っている。今日われわれが毎日飲む水、常時呼吸する大気、種子を植え付ける土壌、毎日食べる食品のいずれにも何らかの合成化学物質が共存している。さらに食品には、着色、漂白、加熱、保存加工のために合成化学物質が添加されている。

思い起こしてみれば、19世紀の半ばから土壌には化学肥料、染料および農薬などの化学物質が取り込まれた。例えば、ユスタフ?フォン?リービッヒの化学肥料、ウイリアム?ヘンリー?パーキンの染料、フリードリッヒ?フォン?ケクレのベンゼン環をもつ化学物質、フリッツ?ハーバーとカール?ボッシュのアンモニア、極めつきは、パウル?ミュラーのDDT、その延長上には、クロルデン、ヘプタクロル、ディルドリン、アルドリン、エンドリンといったDDTと同様の塩化炭素系の殺虫剤とパラチオンやマラチオンといった有機リン酸塩系の殺虫剤があった。さらに近年では、ダイオキシン類の化学物質が大気から混入する。

われわれはこれらの合成化学物質のお陰で、増加しつつある人口に多くの食料を提供することができた。飢餓と貧困を見事に克服してきたのである。20世紀の技術知の勝利を獲得したのである。

しかしながら、これらの技術知の成果は、両刃の剣の性格を有していたのである。大量生産のために投与した資源?エネルギー?合成化学物質は、重金属に見られるような点的な、あるいは窒素やリンによる河川や湖沼の富栄養化にみられる面的な、また二酸化炭素や亜酸化窒素による温暖化にみられる空間的な環境問題を、さらには健康に適さない食品汚染などの問題を起こしたのである。

とはいえ、古くから化学薬品による土壌や食品の汚染に対抗する考え方として、有機農業などによる活動例があった。有機農業運動の創始者のアルバート?ハワード卿の「土壌と健康」、イーブ?バルフォアの「生きている土壌」、有機農業に対する科学的支持を簡潔かつ荘重な言葉で語ったミズーリ大学土壌科学科長のウイリアム?アルブレクト、レイチェル?カーソンの「沈黙の春」、また最近では、シーア?コルボーンなどの「奪われし未来」なども同じ考え方である。

今から94年も前にこれらの問題の本質を指摘したのが、冒頭のカレルである。この言葉は、農と環境と医療が極めて密接な関係にあることを如実に表現している。

カレルの指摘したことは、すでに現実として在るが、この問題を克服しようとする試みが、国際土壌科学会議にも現れてきた。国際土壌科学会議の計画と内容を以下に紹介し、農医連携の必要性をさらに強調したい。

国際土壌科学会議‐土壌?安全食品?健康‐

1924年に設立され82年の歴史を持つ国際土壌科学会議は、第18回目の国際会議を2006年7月9日から7日間、アメリカのフィラデルフィアで開催する。今回の土壌科学会議は次の4部門から構成されている。1) Soil in Space and Time, 2) Properties and Processes, 3) Soil Use and Management, 4) The Role of Soils in Sustaing Society and Environment.

4番目の部門は5分野からなる。このうち、4-2) Soils, Food Security and Human Health がここで紹介する分野である。この4番目の部門は、3人の演者を立て「土壌と健康」と題するシンポジウムを開催する。またこの 4-2)分野は、「食物と健康の栄養分に影響する土壌の質」と題したポスターシンポジウムを開催する。詳細は以下のホームページでみることができる。 http://www.colostate.edu/programs/IUSS/18wcss/index.html

シンポジウム「土壌と健康」

演題1:Science for Health and Well Being
講演者:Dov Jaron, Drexel University
演題2:From Aspergillus to Timbuktu: African Dust, Coral Reefs and Human Health.
講演者:Virginia H. Garrison, U.S. Geological Survey
演題3:Soils and Geomedicine.
講演者:Eiliv Steinnes, Department of Chemistry, Norwegian University of Science and Technology

演題1:Science for Health and Well Being(健康と幸福のための科学)

講演要旨概略

国際土壌科学連合(USS)を含む国際科学会議(ICSU)は、「健康と幸福(SHWB)」のための科学を首唱する。この計画は学際的な科学を促進し支援することに長期的な目標を定めている。われわれはこの学際的な科学,すなわち「健康と幸福」に関わる医学的、社会学的問題の解決策の探求を目指している。具体的なねらいは概略次のとおりである。 1)ICSUプログラムの進展 2)UN(国際連合)やWHO(世界保健機関)のような組織の支援 3)ネットワークの拡大とワークショップの開催 4)SHWBプログラムのもとに学際および国際的連盟プロジェクトの支援

演題2:From Aspergillis to Timbuktu: African Dust, Coral Reefs and Human Health
(遠くまで運ばれるカビ:アフリカのダスト、珊瑚礁および人の健康)


講演要旨

アフリカのダストが、毎年サハラとサヘルから西側のカリブやアメリカ、ヨーロッパやアジアに運ばれている。ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠からのダストが、アジアに端を発する同じようなダストのシステムで、中国、韓国、日本、北太平洋を通ってハワイ諸島まで、また周期的に東回りでヨーロッパまで運ばれている。

この地球規模の大気システムは、土壌微粒子を何百何千年かけて移動させている。運搬されたダストの量は、世界の気候、各地域の気象、供給源の地形学的特徴により年々変化する。過去40年にわたってカリブ海へ運搬されたダストの量の増加にともなって、最近では人間活動にも変化が生じている。

ダストの発生源やダストが旅する地域では、人間活動の結果、ダスト風の固まりの組成が変化してきている。原因は、バイオマスや廃棄物の燃焼、さらに殺虫剤、プラスティック、有機合成化学物質や薬品が広範囲に使用されていること、さらには工業化が促進されたことによる。

一連のパイロットプロジェクトから、われわれの仮説が立証され始めた。その仮説とは、アフリカのダスト風の固まりが可視微生物、微量金属元素や残留性有機汚染物質(POPs)を数千キロも離れたアメリカやカリブ海に運搬するか、さらに汚染物質と侵食された鉱質土壌は逆に、風下の生態系と人間の健康を襲うのではないかというふたつである。

POPs、微量金属元素や、数多くのタイプの病原体を含む可視微生物が、マリ共和国のサヘルやヴァージン諸島とトリニダードのカリブ海の大気から検出されている。

マリの大気サンプルは、カリブの大気サンプルよりも単位当たり可視微生物量の多いことがすでにわかっている。マリでの微量金属元素の濃度は、鉛が僅かに高濃度だったが、外側の組成は同じようなものであった。

予備実験ではPOPsが大量に検出された。なかでも濃度が高かったのは、カリブよりもマリでのサンプルであった。同定されたPOPsの多くが、人間や他の生物にとって毒素、発癌物質、免疫系抑制剤、内分泌撹乱物質として作用することが知られている物質である。

環境毒物学の予備実験から、カリブ海で収集されたアフリカのダストは海洋生物の敏感な生命段階に非常に有毒であることがわかった。珊瑚礁にダストを付着させ、毒性試験を行いながら、有毒成分の同定を進めている。

また、アフリカのダストとトリニダードの小児喘息による急患との因果関係に関する調査を続行中である。10μmおよび2.5μm未満のエーロゾルの濃度、粒子表面組成(特にPAHおよび金属)、POPs、微生物および花粉は重要である。

これらの予備的な研究から発見された事実は、将来行われるカリブ諸島の珊瑚礁生命体、人間の健康およびアフリカのダスト間の汚染物質の影響に関する研究に有益なものとなるであろう。

われわれは、発生源地域の土壌侵食プロセス、運搬された土壌粒子表面の物理化学的特性、さらには、長距離運搬の間に生じるダストの変化についての理解を拡げるため、土壌学者および他からの学際的な科学者との共同研究を行いたいと考えている。

演題3:Soil & Geomedicine(土壌と地質医学)

講演要旨

地質医学とは、ある地域に住む人間と動物がその地域の自然から受ける影響を明らかにする学問分野である。人間と動物の健康については、潜在的に土壌汚染が最も危険性に富んでいる。天然において、化学物質が過剰か不足かという問題は古くから知られているが、今後、地球的な観点からさらにこの問題は重要になるかも知れない。

注目すべきは、必須微量要素または有害微量要素に関わる視点である。特に、土壌の微量要素欠乏に関わる課題は、家畜の繁殖にも農作物の耕作にも影響することが何年にもわたり数多く報告されている。植物に欠乏する元素には、ホウ素、マンガン、銅、亜鉛およびモリブデンがあり、家畜に欠乏する元素には、コバルト、銅、ヨウ素、マンガンおよびセレンに関連したものが知られている。動物が過剰に毒性物質を摂取した例として、銅、フッ素およびセレンなどがいまも報告されている。畜牛へのモリブデン過剰供給による銅欠乏のような特異的な問題が、ときに要素間の相互作用を引き起こすかも知れない。

近代の集約農業では、作物と家畜の微量要素欠乏については、化学肥料あるいは動物飼料中にこれらの微量要素を添加することで対応してきた。土壌pHの調整は、作物への摂取量の規制が有益かも知れない。

獣医学における必須微量要素の問題は、先進国においては大部分が解決された。しかし、家畜の微量要素欠乏の問題に有機農業がある。だから、家畜の飼料がある地域に限定され、農作物のなかの微量要素のバランスがそこの土壌に依存しているのであれば、家畜に見られるような問題が人類にも現われそうである。

先進国では、人間の集団は様々な地域から食料を集めているから、土壌の元素についての地理的な違いによる影響を受けにくいと考えられる。しかし、アフリカ、アジアおよびラテンアメリカの大部分では、ひとびとはその地域で育った食物に依存しており、それゆえ、ヒトの現在の地質医学的な問題は、主に世界のこの地域に限定される。

有名な例は、セレン欠乏による中国のKeshan病、バングラディシュおよびインドの隣接地域における大規模なヒ素中毒である。発展途上国における多くの問題が地質学的な要因に関係しているから、まだその問題が見つかっていないことは当然とも言える。

土壌のすべての必須元素が土壌鉱物だけに由来するとは限らない。ホウ素、ヨウ素およびセレンのような微量要素は、海洋から大気によって運ばれ、大陸の土壌にかなり供給される。したがって、これらの元素に関連した障害は、歴史的に沿岸地域ではそれほど一般的ではない。ヒトのヨウ素欠乏障害の発生は、主として海洋から遠いところに限られている。また、Keshan病と関係する中国内の地域も、主に海から遠く離れたところであることが注目に値する。

ポスター?シンポジウム「食物と健康の栄養分に影響する土壌の質」
  • Investigating the Fate of Residual Organophosphonate Nerve Agent in Soil.
  • Effects of season and daily changes in nitrate (NO3-) contaminant levels of lettu ce.
  • Heavy Metals in Soil-Plant System in a City with Non-Ferrous Ores Extraction and Processing Industry.
  • Soil Type and Precipitation as Lyme Disease Risk Indicators.
  • Using by-products of steelmaking industry as soil pH corrective and their effectson Zn, Cu and Cd of soil and tea plant.
  • Human Health Risk Due to Food Produced from Soil Contaminated with Urban Industrial Toxic Wastes.
  • Cancer and Non-Cancer Health Risk from Eating Cassava Grown in Some Mining Communities in Ghana.
  • Improving zinc availability in rice grains: the role of the soil-plant system in the food chain.
  • Epidemiological study of coccidioidomycosis (valley fever).
  • Reduction of cadmium content in Eggplant (Solanum melongena) by grafting onto root stock Solanum torvum.
  • Study on Nutrition Absorption Pattern of Vegetable Crops with the Height above Sea Level in Korean Highland.
  • Seed priming with molybdenum alleviates molybdenum deficiency and poor nitrogen fixation of chickpea in acid soils of Bangladesh and India.
  • Aluminum concentration and forms in tea (Camellia sinensis L.).
  • Effect of Nitrogen, Potassium and Magnesium on Tuber Yield, Grade and Quality of Potato Cv. Kufri Giriraj.
  • Native Nutrient Supplying Capacity of Potato grown Acid Soils of Nilgiri Hills in South India.

なお、ポスター?シンポジウムには日本人による発表が2題含まれている。
農?環境?医療から見た水問題
毎年、8月1日は「水の日」である。この日から一週間は「水の週間」と呼ばれる。年間で水の消費量が最も多いこの月の初めに、水の貴重さを考え、節水の意識を高めてもらうという週間だそうだ。「国連水の日」もある。こちらは毎年3月22日である。1992年12月22日の第47回国連総会本会議で決議された。水資源の保全、開発やアジェンダ21の勧告の実施に関して普及啓蒙活動を行うことが提唱されている。

日本には常に「安全」と「水」があって、日本人はこれらが只だと思っていると指摘したのは、「日本人とユダヤ人」の著者、イザヤ?ベンダサン(山本七平)氏であるが、今やその「水」と「安全」も神話になろうとしている。

温暖化で夏が早いだろうと勝手に考え、さらに「安全」の先行きが見えない衆生世間の事象を思い、「水の日」に一ヶ月早いが、水の問題を取り上げた。

はじめに
1.水不足は世界を脅かす
2.地球を巡る水
3.さまざまな国の水分布
4.水と気候変動
5.人と水:農と水?医と水?日本人と水
6.水の21世紀をどう生きる:水問題の今?水問題と取り組む
おわりに


はじめに

人類が21世紀を安定的に生き続けるために、食料を継続的に生産し、医療を健全に維持していくうえでの制約要因にはさまざまなものがある。なかでも脅威ともいうべき重大な制約は、「水」にほかならない。

そもそも農の起源は、小川の流れに沿った場所で灌漑とともに始まったといえる。一方医の起源は、オスラーが語る看護の起源であって、穴居家族の母親が小川の水で病気の子供の頭を冷やすことから始まった。水産にしても同じことで、河川や海岸にそった漁労から始まった。

しかし多くの古代文明は、「灌漑農地の塩分の増加」などの問題を上手に制御できず農業生産が持続できなくなったり、一方では「水による病原菌の伝播」を防除できなくなったりして、消えていく運命にあった。

こうした問題は、今日いまだ完全には解決できていない。さらに恐るべきことは、世界の穀倉地帯で地下水がかつてない勢いで汲み上げられていることである。しかも、インド、バングラデシュ、中国といった途上国のみならず「世界のパンかご」と称されているアメリカでも、同じような綱渡りにも似た大規模農業が展開されているのである。

一方、温暖化にともなって一部の地域では干魃や洪水が発生し、蚊の発生分布が変わったり、地表水が汚染され下痢疾患が増加したり、マラリアの分布が拡大したりしている。水が原因の下痢性疾患による死亡者は、2002年において約180万人に及んでいる。

このように水の問題は、環境を通して農と医療に多大な影響を与えている。したがって、ここでは、水不足は世界を脅かす、地球を巡る水、さまざまな国の水分布、水と気候変動、人と水:農と水?医と水?日本人と水、水の21世紀をどう生きる:水問題の今?水と取り組む、などについてまとめた。

なお、「水」の性質上、農を主に医を従として整理した。また、食料生産の主要な部分を占めている水産に関わる水の問題については触れていない。識者のご批判を仰ぎたい。

1.水不足は世界を脅かす

冒頭に書いたように、21世紀の脅威は「水」である。いまでは、われわれの食料の約40%が潅漑農地から生産されている。中国の河北平原、インド、パキスタン、アメリカ西部などにみられるように、世界有数の食料生産地域で地下水が汲み上げられている。そのほとんどの地域で、自然が補給する以上の速度で地下水が汲み上げられている。世界の食料生産にとって、水不足は今や最大の脅威になっている。

これからの食料生産をますます灌漑に依存しようとしている現在、潅漑の基盤は多くの弱点を見せつけている。世界中のさまざまな所で、塩類の集積、土壌侵食と堆積、インフラの不備、宗教的対立、気候変動などが起こっている。古代の潅漑文明が遭遇した事象と同じ脅威が、さまざまな場所で異なる頭をもたげている。潅漑システムを抜本から見直さなければ、潅漑による農業の生産性は低下していくであろう。ましてや、増加しつつある人口に食料を提供することはいまや不可能であろう。

これまでに多くの灌漑文明が生まれ、そして消えていった。古代メソポタミア文明に繁栄したアッカド帝国は、潅漑農業があった故に発展できた。しかし突然の気候変化は、人口の増加と水不足をもたらした。そのため、帝国の勃興期には支えとなった潅漑農業が一転して弱点となって現れた。土壌への塩類集積である。メソポタミアの社会が依存していた潅漑農業は、もともと環境の面からは不安定だったので、たとえ小規模でも混乱が起これば、社会は崩壊しやすくなっていたのである。

インダス文明崩壊の原因は、塩類集積、土壌の侵食と堆積、洪水、それに気候の変化などであったといわれている。エジプトの潅漑システムは、構造、環境、政治、社会、制度などの視点から見て、人類史の主要な潅漑文明社会にあって、もっとも本質的に安定していた。

かつての大きな文明に比べれば、時期的には遅く規模もずっと小さいペルー沿岸、メキシコ中央部、北アメリカの南西部に発達した潅漑文明は、南北アメリカの文化の発展を決定づけた。世界の初期潅漑文明を見ていくなかで忘れてならないのが、紀元前300年にメキシコからアリゾナ州に移ってきたホホカム文化である。気候変動による温暖化の世紀に入りつつあるいま、激しい洪水や干ばつに襲われるなど、ホホカム文化の時代ときわめて似たことが起こっている。われわれは、ホホカムの歴史から今後を予見できるかもしれない。

世界の潅漑面積の半分以上が、インド、中国、アメリカ、パキスタンに集中している。中国、エジプト、インド、インドネシア、パキスタンを含む多くの国が、国内の食料生産の半分以上を潅漑農地に頼っている。

しかし中国、アメリカ、ウクライナの潅漑開発はまさに限界といえる段階に達し始めている。そのうえ世界のほとんどの地域で、潅漑に適した土地はすでに開発されつくしている。また、世界の潅漑システムの多くは、望ましい状態に維持されていない。数十年にわたって使用された潅漑システムは、50から70%の割合で修復の必要性がでている。150年以上にわたった近代潅漑の時代は徐々に勢いを失っている。これからは、環境共生型潅漑へパラダイムシフトしなければならないであろう。

世界ではさまざまな所でダム貯水池が埋まり、河川が干上がりつつある。黄河は、この十数年にわたって毎年干上がっている。テキサス州のデフ?スミス郡では井戸水が干上がった。世界の重要な食料生産地域の多くで、潅漑用水が底をつき始めている。世界のいたる所で、農民は自然が供給するより速い速度で地下水を汲み上げているため、地下水位は着実に低下している。

南アジアのガンジス川とインダス川、アフリカ北東部のナイル川、中央アジアで見たアムダリア川とシルダリア川、タイのチャオプラヤ川、北アメリカ南西部のコロラド川はいずれも、ダムでせき止められたり取水されたりしているので、川の水がほとんど海へたどり着かない時期がある。このような例はいたる所で見られる。

さらにインドの穀倉地帯、中国北部から中央部に広がる穀倉地帯で、地下水量の減少が起こっている。同様なことがパキスタンやアメリカの潅漑農業地帯にもある。ダムの役割が問い直される必要がある。また、温暖化が潅漑農業に及ぼす影響も考えに入れなければならない。

地下水量だけの問題ではない。水と共に移動する塩が、世界の食料生産を蝕む。砂漠を肥沃な畑に換え、生産のため河川の流れを人間の思うままに変えると、自然はさまざまな形で反逆する。なかでも恐ろしいのが、灌漑に伴う塩害である。初期メソポタミア文明が栄えたイラク南部は、その典型であろう。

世界の灌漑地の五分の一が、土壌の塩類集積に悩まされている。塩類集積は、中国、インド、パキスタン、中央アジア、アメリカなどの広い地域で農地の生産力を低下させている。

中央アジアにあるアラル海盆地は悲惨な状況にある。政府は、大量の水を近くの主要河川であるアムダリア川とシルダリア川から分水し、潅漑地を拡大した。このため、アラル海の水量は三分の一に減った。そのうえ、塩分を含んだ農業廃水が潅漑した周囲の畑から水路に流れ、塩類濃度が着実に増加した。下流での潅漑は、耕地に大量の塩類を追加することに繋がった。このような例は、パキスタン、中国、インド、アメリカ西部にもある。

一方、水は農地から都市へ転用され始めている。北京、バンコク、ジャカルタ、マニラをはじめとするアジアの巨大都市では、増大する水の需要の一部をすでに過剰に汲み上げた地下水で補っている。これらの地域では、農業用水を都市用水へ転用するという圧力が高まりつつある。都市が農業から水を吸い上げ続けているのである。水の争奪戦を的確に管理できないと、食料供給が低下する地域もでてくる。

加えて、この十数年間に社会の価値観が、自然生態系とこれが生み出している数々の恩恵を保護すべきだとする方向に変わってきた。アメリカでは、河川によって維持されていた湿地や湖が乾き始めた例がでてきた。そのため、野性保護の問題がではじめ、自然環境へ水を再配分することが実行されはじめた。

以上のことをまとめると、水不足は、短期間の過剰揚水の問題、潅漑農地と灌漑用水基盤の急速な侵食の問題、農業生産の驚異的な成功の影にひそむ問題、人口と地球の淡水量のバランスの崩壊などにある。

2.水は地球を巡る

地球は、46億年前「火の玉の惑星」から、「水の惑星」、「生命の惑星」、「文明の惑星」へと進化した。「水の惑星」と呼ばれる地球は、太陽系の中でも水が存在する唯一の星である。

この惑星は、13億8600万km3という莫大な水をたたえている。とはいえ、陸上の生物に欠かせない淡水の量は3500万km3で、全体の水の約2.5%に過ぎない。その淡水にしても、68.9%が極域にある氷床や永久凍土として固定されている。人間が利用できる形態の水は、地下水として存在している1047万km3(29.9%)、湿地を含む土壌水や生物の構成要素の水32万km3(0.9%)、そして河川や湖沼の地表水としての11万km3(0.3%)なのである。

われわれ人類、いやあらゆる地球上の生命体は、18 cmの土壌と、11 cmの水と、15 kmの大気と3 mmのオゾンの恩恵を被って生きている、と筆者はさまざまなところに書いているが、ここに言う11 cmの水とは、湿地や土壌水分などの形態の淡水を陸地面積で除したものに相当する。

水を資源と捉えるとき、この資源は他の資源とは異なるいくつかの特色を持つ。その一つは、常に自然界で更新され続けていることである。そのため、水資源の多寡は、これまで示したストックとしての量だけでなく、それぞれのストックへのフローの量も含めて考えなければならない。

例えば、大気に含まれている水蒸気を水のストックとして表現する。その量は、1万4000 km3にすぎないが、そこに出入りする降水や地表面からの蒸発の量は、年に57万7000 km3(km3/年)に達する。降水のうち、陸上に達するフローは11万9000 km3/年で、このうち4万2600 km3/年が地表流となって河川や湖沼のストックを更新し、2200 km3/年が地中に浸透し浅層地下水流となって地下水や湖沼などのストックを更新する。残りの6万5200 km3/年の水フローは蒸発散して大気に戻る。

地下水と河川水とは、必ずしも厳密に分別することができない。最近のWorld Resources Instituteの報告では、地表流が4万594 km3/年、地下水を更新するフローが1万1358 km3/年、どちらとも分別できないフローが1万67 km3/年と推定している。これらのことは、大野(2006)の論文に詳しい。

ストックが何であろうとも、そこへのフロー以上の水資源が取り出されれば、そのストックはやがて枯渇する。地下水は一見豊富なように思えるが、フローそのものが小さいため、過剰に利用してしまう傾向がある。

水資源がもつもう一つの特色は、一部の汚染によりストック全体が簡単に失われることである。ダムであろうと河川水であろうと、任意のストックについて当てはまるが、ストックに比してフローが極端に小さい地下水は、一旦汚染すると回復に極めて長い時間を必要とする。例えば、10ppmの硝酸で汚染された地下水が通常の1ppm以下の濃度に回復するのに何百年の歳月が必要なのだろか。筆者は、見積もるための計算式も知らない。

3.さまざまな国の水分布

地球上の水分布は、地理的にも社会経済的にも極めて不均衡である。大野(2006)は、このことを最近のWorld Resources Institute のデータを活用し、「不公平な水」といタイトルで分かりやすく解説している。以下、この解説に沿って地球上の国別水分布について述べる。

まず日本の水を見てみよう。日本の降水量は比較的豊富な1718(世界平均:880、以下同様)mmであるから、4200億 m3の水資源が賦存することになる。これを一人当たりに換算すると、3300(7800)m3/人/年になる。2002年現在、日本人はこの水資源から852億m3取水し、66(70)%を農業用水に、14(20)%を工業用水に、19(10)%を生活用水に使用している。一人当たりの取水量は670(633)m3/人/年で、生活用水を一人一日あたりに換算すると349(345)リットルである。日本の水の使用量は、世界平均に近い。

次に、地理的な要因にもとづく水資源の偏在を概観してみよう。降水に起因する世界各国の領土内に降る水資源賦存量の一人当たりの値は、最も大きいアイスランドと、最も少ないエジプトとでは、10万倍もの差がある。また、FAO(国連食料農業機関)が最低限の食料生産に必要と見積もっている1000 m3/人/年以下の条件で生活しているひとびとは、世界で約6億人以上いる。

国民一人当たりの生活用水の使用量は、国によって大きく異なる。例えば最も大きいのはカナダ(809リットル/人/日)で、少ないのはエチオピア(1リットル/人/日)である。また、次のような生活使用量の国別比較もできる。例えば、使用量の多い順は、カナダ>アメリカ>日本>インド>中国>エチオピア、である。

日々の生活のために同じように使用する水ではあるが、国によって使用量の違いは1,000倍近い。サハラ以南のアフリカ諸国を中心とするひとびとは、10リットル/人/日程度の水で生活している。世界平均に近い日本と同程度以上の水を使用している人口は、5.6億人である。これは、65億の世界総人口の8.6%に過ぎない。

地理的要因に加え、水は社会経済的にも極めて不均衡である。命や健康など生活の損失は、上下水道への投資が十分に行われていない発展途上国に集中している。このことは、国の水資源賦存量の多寡によらない。さらに、水資源賦存量が少ない発展途上国では、ひとびとは水を収集するために、毎日何時間もかけて水を採取しているし、疫病の危険にも直面している。

一方、ひとつの国においても、水はしばしば不均衡である。中国のいくつかの河川では、中流域での大量な灌漑用水の取水により、下流域のオアシスが枯渇しつつある。今回完成した山峡ダムの影響はどのような形で現れるのであろうか。

4.温暖化と水

気候変動に関する政府間パネル(IPCC:Intergovernmental Panel on Climate Change)の第3次評価報告書(IPCC報告書)は、地球上のさまざまな観測データにより、1861年以降の地球の平均地上気温が上昇を続けていることを明らかにした。この報告によると、20世紀中に地上平均気温は0.6±0.2℃、平均海面水位は10cmから20cm上昇しているという。

IPCC報告書は、温暖化現象の将来も予測している。これによると、地球の平均地上気温の上昇は、1990年から2100年までの間に1.4℃から5.8℃の範囲で、膨張などによる海面の上昇は9cmから88cmに達すると予測している。過去1,000年の温度変化が約0.5℃であったのに対して、2100年までのたった100年間に平均気温で1.4℃から5.8℃も上昇するという予測は、驚異的な数字である。

温暖化により気温が上昇すれば、大気圏に含まれる水蒸気の量も増加するため、大気での水循環はより活発になる。これまでのデータの解析やモデル予測の研究の多くは、総降水量が増加し降水変動も大きくなり、豪雨や無降水の日数が増加する傾向を指摘している。これに伴って、地上の水資源の特性も変化することが予想される。しかし、水資源の変動予測や評価は現時点では極めて困難である。

最近、Millyら (2005)は、20世紀後半に増加傾向にあった南米赤道域東部、アフリカ南部、北米中央平原西部の河川流量は、21世紀に減少すること、乾燥傾向にある地中海地域はさらに北に拡大することを予測している。また、北米とユーラシアの北部、南米ラプラタ川流域、アフリカ赤道域東部では、河川流量が増加すると予測している。

わが国の気象庁(2005)は、降水量の変動が年々増大し、豪雨と無降水日が増加することを指摘している。また冬から春にかけての降水量の減少と、梅雨期から秋雨期にかけての降水量の増加、ならびに全国的な降水強度の増加を予測している。国土交通省(2005)は、温暖化に伴う積雪量の減少により、春季の河川流量が大幅に減少すると予測している。

5.人と水

再び大野(2006)の報告に登場してもらう。人類は自然界にある水を年間3802 km3使用する。一日一人当たりに換算すると、1.7トンに達する。これらは、多くが河川や湖沼?ダムなどの地表水である。地下水からの取水は、600~700 km3/年に相当する。地下水は、取水に必要な投資が少ないこと、温度や水質などに季節変化が小さいことなど水資源として優れている。そのため、涵養量を上回る勢いで取水するため、地下水の枯渇や汚染などの問題が世界各地で発生している。

わが国の全取水量のうち、70%は農業生産のために、生活用水として使用されているのは10%で、工業用水としての使用は20%である。このことは、すでに述べた。一方、地下水については、20%が農業用水、65%が生活用水、15%が工業用水としてそれぞれ使用されている。いずれも、われわれが豊かな生活をするために必要な水である。

続いて、食料を生産するために必要な水についてみてみよう。成人が正常な代謝をするためには、一日約2.5リットルの水を摂取する必要がある。正常な代謝のためには、もちろん水だけでなく食料が必要である。この食料を生産するために大量の水が必要なのである。次に主要な農産物について、単位重量あたりの生産に必要な水の推計値を示す。数値は、農産物1kgの生産に必要な水の量(リットル)を現している。

玄米:2,965(l/kg) 小麦:1,334 とうもろこし:909 大豆:1,789
鶏肉:3,918 鶏卵:3,340 羊肉:6,143 豚肉:4,856 牛肉:15,497

年間約3,000万トンを越す農産物を輸入しているわが国は、全体で約580億トンの水を海外のいたるところで消費していることになる。このことも世界的な水不足が生じている一因になっているのかもしれない。

FAOの見積もりによれば、1人の成人が1日当たり約2800 kcalの食事をとるためには、およそ年間当たり1人につき約1000 m3の水が必要である。ことほど左様に、農業生産には膨大な量の水が必要なのである。しかし、前述したように世界は水不足に悩んでいるのである。

1)農と水

20世紀を定義づける特徴は成長であろう。この成長の物語は人口に始まる。世界の人口は人類が出現してから1900年までに16億人に達した。人口が20億人を超えたのは1930年のことである。1960年に30億人になった。40億人になったのが1977年である。そして、わずか12年後の1989年には50億人になった。2000年には60億を超え、今や65億の人口である。

この人口の増加によって、21世紀に生きるわれわれが直面している限界問題は、おもに淡水、森林、牧草地、海洋漁場、生物多様性、そして地球の大気とオゾン層である。そのなかで、水の問題は、淡水資源の水不足と地下水の汚染である。ここでは、淡水資源の水不足について述べる。

われわれの祖先は、古代メソポタミア時代以来、ずっと水不足と闘ってきた。しかし、いま拡大しつつある水不足の問題は、新しい千年紀にこの世界が直面している資源および環境問題のなかでも、最も過小評価されている問題かも知れない。水を語らずして、人類の文明史と農業を語ることはできない。農業の最初の物語は、より豊かな土地を求め、それを利用し、より居住可能な生産環境を得るための治水の物語でもある。

メソポタミアの入植者たちは、六千年前に食料を生産するための新しい方法を見つけた。彼らはメソポタミアの高地から南下し、チグリス川とユーフラテス川にはさまれた乾燥した平野―現在のイラク南部―に移住した。この新しい定住地は、作物の発芽にも生育にも好適地であったが、収穫期がくる前に乾燥のために作物が涸れてしまう土地であった。これらの入植者は、この問題について効果的で単純な解決策を考えついた。すなわち、溝を掘ってユーフラテス川から畠に水を引いたのである。これが灌漑農法の始まりであった。

このような灌漑農法は、それまでの他のどんな農業活動よりも劇的に農地と人間社会を変容させた。そして、灌漑は大量の余剰食料を生んだ。そのことが、文明の開化を支え、新しい社会的発展の基盤をかたちづくった。多くの文明が、過去六千年の間に出現しそして消滅していった。そのなかで、灌漑が果した役割には、歴史的な興味だけではとうてい語り尽くせない文明と農業の物語がある。

灌漑の歴史は、同時に灌漑農業に立脚したほとんどの社会が、長い年月の内に必ず崩壊することをもわれわれに教えている。灌漑によって一方では土地が変容し、土壌の劣化という脅威が絶えず頭をもたげた。特に深刻なのが塩類の集積であった。例えば、灌漑水に含まれる塩類が土壌を汚染し、肥沃度を低下させ、作物の生育?収量を次第に低減させるのである。

21世紀が始まったが、農業は依然として灌漑に依存している。世界の食糧の約40%がいまでは灌漑農地から生産されている。多くの農業専門家は、今後30年間に必要となるさらに多くの食料の大部分が、こうした灌漑農地から供給されると考えている。しかし、これまで順調に発展してきた灌漑ブームは、この20年間で沈静化し始めている。1970年から1982年までは、世界の灌漑面積は年平均2%の割合で増えていった。しかし、1982年から1994年の間は、この割合が年平均1.3%に下がった。今後25年間の年平均増加率は、最大でも0.6%を超えないであろう。1人当たりの灌漑面積は1987年がピークだったが、それ以後、5%少なくなっている。2020年には、このピーク時から17-18%減少するであろう。

インド、パキスタン、中国、米国西部など世界の重要な食料生産地域で地下水が汲み上げられているが、そのほとんどの地域で、地下水の利用量が自然の補給量を上回っている。地下水資源の減少がもっとも著しいのはインドと中国である。インドの大部分の地域では地下水位が低下し、何千もの村で井戸が干上がっている。帯水層の水の枯渇に伴って、灌漑用水が減少し、インドの穀物生産量は25%程減少するおそれがある。中国では、平野のほぼすべての場所で地下水位が低下し続けている。中国の穀物の40%を生産する華北平原では、地下水位が1年に1.6メートルずつ低下している。地下水の過剰揚水は目に見えないが、いっそう深刻である。インドの主要な穀倉地帯のパンジャブ州では、広い地域に渡って地下水が年に0.5メートル、ハリヤーナ州では年に0.6から0.7メートル下がっている。

水不足は今や、世界の食料生産にとって最大の脅威になっている。食料生産がどのような過程をたどるかは、水しだいとも言える。さらに、これまでの地球規模の食料予測モデルは、水の供給量に制約があることをほとんど無視している。その結果、将来の食料供給については過度に楽観的な予想をしている。

人類の将来に影響を及ぼしつつある動向の中で最も目に見えにくいもののひとつが、地下水位の低下である。浸水、塩類集積、水路の沈泥といった灌漑に伴う問題は数千年前に遡るが、地下帯水層の枯渇はおおむね過去半世紀に始まった実に新しい問題なのである。

今日の灌漑農業を特徴づけるあらゆる脆弱(ぜいじゃく)性のなかで、地下帯水層の枯渇ほど重大な現象はないであろう。多くの地域で、農業活動は帯水層に自然に貯まる水の量を上回る速度で地下水を汲み上げ、地下水位を着実に低下させている。このことは既に述べた。いまやこの問題は、中国の中央部と北部、インドの北西部と南部、パキスタンの一部地域、米国西部の大部分の地域、さらに北アフリカ、中東、アラビア半島などいたるところで起きている。

灌漑の歴史は六千年に及ぶ。近代灌漑はおよそ200年の歴史があるだけで、経験の浅い実験に過ぎず、まだ結果も出ていないのが現状である。私たちが歴史から学ぶべきもっとも重要な教訓とは、灌漑を基盤とするほとんどの文明は衰退しているということである。

サンドラ?ポステルは「地球の水を共有する倫理」のなかで指摘する。消えていった過去の灌漑社会の問題と今日の灌漑農業の状況とがよく似ていることに、驚かされる。現在起っている塩類集積から水をめぐる争いまでが、過去の問題のくり返しである。そのうえ、現在はまったく新しい要素が加わって、状況はこれまでよりもいっそう困難である。

まず第1に、問題の不安な前兆が早々と現れてきている。今日の灌漑基盤の60%は建設?整備されて50年もたっていないと言うのに、すでに多くの土地で現在の生産性が維持できるかどうか危うくなっている。

第2に、土壌への塩類集積、貯水池への土砂の流入と堆積、肥大化する都市への灌漑用水の転用によって、灌漑農地が侵食され、灌漑用水基盤が急速に劣化している。

第3に、1960年代に推進された稲?小麦の多収品種開発、すなわち「緑の革命」の驚異的な成功がひとびとに過大な自信を抱かせ、その先にある問題の規模を見えなくしている。

第4に、人口と地球の淡水量のバランスが急速に崩れてきているために、私たちの目前にある問題は人類史上になかった規模になっている。いまから25年の間に、水不足に悩む国の人口は6倍以上に増え、現在の4億7000万人から30億人になると予測されている。

2)医と水

古来、水はひとびとに計り知れない程の大きな恵みを与えてきたが、一方では水の媒介による伝染病の問題に苦しんできた。衛生環境の悪化した条件では、飲料水や生活用水の汚染がコレラやチフスをはじめとする感染症を蔓延する下地をつくった。

中世以来の都市の下水設備の不備、工業都市となって人口が増加し、急速に過密化した労働者の住宅地区での非衛生的な環境悪化は、水を媒介としたさまざまな感染症問題を起こした。

地球温暖化の進行によって熱波、異常気象、気温、降雨量等が変化する。その結果、さまざまな健康影響が生じる可能性のあることも予測されている。健康に影響する直接的要因群には、気温の変化、異常気象の増加、大気汚染の悪化、動物媒介性伝染病の拡大などと共に、水-および食物-由来の伝染病の増加が懸念されている。

鳥インフルエンザの問題も水と深いかかわりがある。毒性の強い鳥インフルエンザウイルス(AIV)H5N1型が、世界的に流行している。5月30日現在、すでに226人の感染者と、128人の死者が出た。人から人への感染が懸念されている。

これまで90種類の野鳥からAIVが分離されているところから、ほとんどの鳥類がウイルス感染に感受性があると考えて差し支えないだろう。世界各地の水生鳥類、とくにカモ、ガチョウ、ハクチョウ、シギ、チドリ、カモメ、アジサシなどの健康な渡り鳥から、AIVが高い確率で検出された。なかでもカモからのAIV検出率が高いことから、現在では野生の水禽類が生態系におけるウイルスの自然宿主と考えられている。水を媒介し感染する病気の代表的なものである。

大野(2006)は、CRED(Center for Research on the Epidemiology of Disasters)データベースから、2004年と2005年の自然災害の類型別被災者数を明らかにした。この間、約1億5千万人ものひとびとが毎年何らかの自然災害に見舞われている。その大半は、水に関わる旱魃と洪水で占められている。

台風や高波?津波なども、水が引き起こす災害と捉えることができる。その意味では、自然災害のほとんどが水と風によって引き起こされていると言って過言でない。このような自然災害の他にも、人は定常的に水によって苦しめられている。WHOとUNICEFによれば、水が原因の下痢性疾病による死者数は、2002年に179万8000人に登る。そのうち、90%が4歳までの子どもである。

死亡には至らなくても、疾病や後遺症はその人や家族の能力や幸せを奪う。ハンデを持つことで失われたと推定される年数を示すDALY (disability-adjusted life year)という指数がある。これによって水が原因の疾病や後遺症による社会的損失を時間で表現すると、2002年においてトラコーマだけでも232万9000年に上る。このほか少なからぬ国々で、地殻にヒ素やフッ素などを含む飲料水による健康障害が発生している。

ひとびとに豊かな恵みを与えるのが水であるならば、ひとびとに苦しみを提供するのも、また水である。

3)日本人と水

これまで、人口増加と灌漑、世界の水資源、灌漑への依存、灌漑の危険性、灌漑と塩類土壌、灌漑の未来などについて書いてきたが、あくまで世界の水利用の立場からであった。この項は、この国の水の視点から水不足についてまとめた。

一般的に、わが国は豊かな水に恵まれていると認識されているが、水の利用については実に厳しい水文および地文条件下にある。また、同様にアジアも水に恵まれていると考えられているが、決してそうではない。

わが国の年間平均雨量は1714mmもあるから、世界平均降雨量973mmに比べるときわめて多いと考えられがちである。しかし、1人あたりの利用可能降水量は、世界の平均が2万2000m3であるのに対して、わが国は500m3にすぎない。この値は、サウジアラビアやタイの半分、アメリカやインドネシアの5分の1にすぎない。

わが国は一人あたりの降水量が非常に少ないうえに、雨の降り方や降った雨の流れ方に問題がある。例えば、雨が降る月と降らない月がはっきりしている。また、芭蕉の句に「五月雨を集めてはやし最上川」(実際には、最上川は急流ではない)とあるように、わが国の地形は概して急峻であるため急流な河川が多い。つまり、河川の水は短期間で海に流れでる。その結果、河川の流水量の変動を表す河状係数は、非常に大きな値になっている。

われわれが使う水は、すべてこの花綵(かさい)列島に降り注ぐ雨と雪によってもたらされる。これは島国ならではの特徴である。国際河川がない国では、水によって他国と争いを繰り広げる必要はない。そのため、安心して自国だけで水資源計画や治水計画を樹立することができる。

しかし、グローバリゼーションがさまざまな分野で進行しているなかで、水もその例外ではない。輸入や輸出という「物」の動きのなかで、水は地球上を流転しているのである。このことは、すでに前世紀から始まっており、今世紀にいよいよ激しくなったにすぎない。地球上において、水は国境を越えて日夜大量に移動しているのである。

日本の食料自給率はエネルギー換算で41%である。木材の自給率は20%以下にすぎない。有事に備えるべくこの自給率を向上させることは、わが国の悲願である。60%および80%に相当する輸入食料および木材には多量の水が含まれている。その水は河川にある水のように、われわれの目には直接見えない。輸入している農産物や木材を生産するために、輸入元の国では大量の水を消費しているのである。それらの輸出国の水が不足すれば、自国の食料や木材のために水を優先させることは、自明の理である。当然、わが国への農産物と木材の輸出を減らすことになろう。

このように、水の国際化は確実にこの国に影響を及ぼしつつある。それにしては、水の問題に対するわれわれの自覚と感性は乏しいといわざるをえない。この問題がもたらすさまざまな影響に鈍感でありすぎる。

かつて、水は生活と共にあった。しかし、都市化、工業化および農業の集約化は河川や湖沼の水質を低下させた。水質が低下した水を健全な水に回復させるために、さまざまな装置と多額な費用が必要になった。水はしだいに、身近な手もとにある自然ではなくなっていった。生活とともにはなく、製造するものとなり、そのうえ高価で貴重な資源になった。近代化がもたらしたわれわれと水の乖離(かいり)ともいえる時代になった。水は「天からの貰い水」ではなくなり、「湯水の如く」使ってはならない貴重な資源となった。

この国には、古くから「水」にまつわる数多くの諺(ことわざ)がある。先の「湯水の如く」、「水に流す」、「我田引水」、「覆水盆に返らず」、「智者は水を楽しむ」、「水は方円の器に随う」、「親の恩は返されても水の恩は返せぬ」、「餓鬼の目に水見えず」、「金を水のように使う」、「水の行方と人の行方は知れぬ」、「水は遊ばせ走らすな」、「天からの貰い水」など。これらの格言は、果たして今でも生きているのであろうか。

6.水の21世紀をどう生きる

1)今水問題は

今、世界は水問題に絶大な関心を抱いている。アルゼンチンで1977年に開催された「国連水会議」は、その皮切りである。その後、国連機関やNGOによる調査や援助の実施、さらには報告書の公表や国際会議の開催などが活発に行なわれるようになった。

第4回「世界水フォーラム」が、メキシコで2006年の3月に開催された。ここでは、UNESCOをはじめとする21の国連機関が共同してとりまとめた第2次国連国際水開発報告が発表された。また、2007年にはIPCCが第四次評価報告書で、将来の水資源の変動とそれによる影響の評価を発表する予定である。このような急激な水への関心が高まった背景には、これまで述べてきたように旧ソ連の崩壊による水問題の顕在化や、中国やインドなど一部発展途上国での急速な経済成長に伴う水の需要がある。加えて、水汚染の拡大の他に、人口の増加による資源の圧迫と気候変動による水循環の変化への不安などがある。

大野(2006)が、World Resources Institute の2006年の最新のデータから作成した人類による取水量は、この100年で急激に増加し、現在も増加しつつある。しかし、取水率は低下している。この5年間の変化を大陸別に見てみると、アフリカとオセアニア、南米ではほとんど変化が見られないが、ヨーロッパと北米では減少に転じている。

その中で、アジアだけは増加の勢いが鈍らず、1990年から2000年の間に225km3も増加している。このうち、インドと中国の増加量の和は250 km3である。つまり、インドと中国を除くアジアの国々の総和は減少しているのである。そのためインドと中国では、水質汚染、地下水位の低下、河川流量の減少などが深刻である。

2) 水問題と取り組む

水に対する危機を克服するための方策が必要である。食料生産に関しては、灌漑投資の促進、生産のための灌漑用水効率の向上、水の効率的な配分、が重要な事項である。これらのことを促進するには、水資源が地理的?社会経済的に極めて不均衡に存在し、それに応じて農業生態系や地域経済も極めて多様であることを十分に考慮しなければならない。

また、水利用者や利用部門間の配分の適正化が重要であろう。この議論でしばしば強調される仮想水(バーチャルウォーター)と、全費用負担(フルコストプライシング)との概念が導入されなければならないであろう。詳細は、大野(2006)の文献を参照されたい。

仮想水は魅力的な概念ではあるが、まだ発展途上にある。とくに、仮想水消費量を抑制することが常に水資源の保全につながると考えてはならない。例えば、半乾燥地域では灌漑農地による小麦の栽培よりも、羊や牛の放牧のほうが水資源を保全できると考えるのが妥当であるが、後者の方が前者の1/3~1/11も仮想水の消費を抑制すると計算される。

全費用負担とは、水を得るために支払われたすべての費用を利用者に求めるものである。なお全費用には、ある者が利用したために、他者が利用できなくなったことにより生じる損失も費用として組み込まれる(機会費用)。このように、水を経済財と見なすべきであるという考え方は、1992年に開催された「水と環境に関する国際会議」の宣言に盛り込まれて以降、議論を呼んでいる。

「世界水フォーラム」の主催団体である世界水会議はこれを支持し、「世界水ビジョン」では水の供給に必要な全費用を価格に転嫁すべきであると主張している。同様の主張は、世界銀行やOECDにも見られる。この考え方については、NGOを中心に経済的弱者から水を奪うものとして反対意見が表明されている.

おわりに

水の国際化は、わが国だけに都合のよい改革を許さない。日本人としての水の考え方を、きっちりと築き上げ、国の内外に問わなければならない。

例えば、「湯水の如く」水を使ってはならない。汚染物を「水に流す」ことは禁止するべきである。共同して水を使い「我田引水」は御法度にする。未利用の水については、「覆水盆に返らず」の戒めを十分噛みしめる。「智者は水を楽しむ」如くよどみなく巧みに水を処理する。人間が生きていくうえで水は欠かせぬ例えである「親の恩は返されても水の恩は返せぬ」を忘れずに生きる。肝心なものは、「餓鬼の目に水見えず」を教訓に水を使う。「金を水のように使う」とは、水に失礼であろう。「水の行方と人の行方は知れぬ」などは、近代科学で解消しなければならない。「水は遊ばせ走らすな」は、学問と同じに「盈科而進(えいかじしん)」の精神で水を見る。

わが国の水文と地文は過酷な条件を有しており、幾世紀もの歴史を積み重ねている。その結果、日本列島を身体に例えれば、今では血管網のように水脈が国土を巡っている。これは、一朝一夕にできたものではなく、これまでの古人の努力の結果なのである。

生きとし生けるすべての生命にとって重要な水を廻って、人間の関与の増大から様々な問題が顕在化してきた。さらに温暖化にともなう気候変動は、その先行きをさらに不透明化している。このような現状のなかで、世界の水問題を克服してゆくためには、広い意味で農業部門の果たすべき役割は極めて重いと考える。

それは、農業が最大の水消費者であるというだけでなく、農業が人類と自然生態系との接点に位置しているからである。さらに世界では、多くの農業従事者が貧困に苦しんでいる。かくなる意味で、人類と地球の将来は、如何に農業がうまく水を扱うかにかかっている。

日本がこれまで構築してきた水管理の技術を世界に役立てる時がきた。世界の貴重な水を使って生産した食料をかき集めてくる生き方を、真摯に反省する時がきた。

参考資料 
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情報:農と環境と医療15号
編集?発行 博狗体育在线_狗博体育直播【官方授权网站】@学長室
発行日 2006年7月1日