相模原市認知症疾患医療センター

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センター長コラム

第8回 「予防」という言葉について

 診療をしていると、「認知症を予防するにはどうしたら良いでしょうか」と尋ねられることがあります。テレビ、雑誌、書籍では認知症を予防するための方法が取り上げられる機会が多いようです。栄養補助食品の広告にも認知症予防を連想させる言葉が踊っています。試しに「認知症」「予防」という二つの言葉をウェブ検索エンジンに入力すると、認知症を予防することを期待させるウェブサイトが数多く登場します。
 このように、人は認知症を予防することに対して関心を持ちやすいようです。しかし筆者は認知症にまつわる話題の中で、予防という言葉を耳にすると違和感を感じます。そして、認知症の予防という言葉が世にひろまることに不安を感じています。それにはいくつかの理由があります。
 まず、認知症の原因疾患で最も多いアルツハイマー型認知症の危険因子は加齢です。年齢を重ねることは予防すべきことではありませんし、歓迎されて良いことです。アルツハイマー型認知症は歳を重ねていけば誰にでも生じる変化です。それを予防しようというのが、そもそも矛盾に満ちています。
 確かに運動習慣、幼少期からの教育、中年期以降の難聴への対処、高血圧症や糖尿病治療は、認知症を予防する効果があると指摘されています。しかしその効果は極めて弱いものです。しかもこうしたことは人が安心して暮らしていく上で、当たり前に推奨されることばかりです。特に認知症予防と強調することに、どんな意味があると言えるのでしょうか。
 予防的な効果があると言われている方法に勤しんでも、長生きをすればなんらかの認知症になります。認知症の予防という言葉が強調され、様々な取り組みの目標として認知症の予防が謳われると、認知症になった人は「予防できなかった人」と自覚し、周囲にもそうした認識が生まれかねません。結果的に認知症になった人が排除され、孤立しやすくなる雰囲気が生み出されかねません。
 予防という言葉に賛成する人は、二次、三次予防(重症化予防)という意味なのだから構わないと言います。しかし多くの人は予防という言葉を耳にする時、一次予防(疾病の発生を未然に防ぐ行為)をイメージします。ですから認知症について語る時に、予防という言葉は慎重に扱われないと誤解を広めかねません。一次予防のための検査や薬を開発、研究している人たちが予防という言葉の必要性を指摘するのは当然なのかもしれませんが、それは世に広める時期とは言えず、まだ研究の世界にとどめておいたほうが良いのではないでしょうか。
 2019年6月18日、認知症施策推進関係閣僚会議は認知症施策推進大綱を公開しました。その中に予防という言葉が登場することについて、様々な議論が生まれ、結果的に予防という言葉は削除されず『「予防」とは、「認知症になるのを遅らせる」「認知症になっても進行を緩やかにする」という意味です』という但し書きとともに記されることとなりました。そこまでして予防という言葉を残すことにどれほどの意味があるのか疑問を抱くとともに、国の大綱を通して予防という言葉が広まることに不安を抱かざるを得ません。
 2019年10月、一般社団法人日本認知症本人ワーキンググループは「認知症基本法案に関する認知症の私たちからの期待と要望」の中で、『「予防」を「備え」に変え、全国民が認知症に希望をもって向き合うための法に』と述べ、予防という言葉を法の目的や理念から無くすこと要望しました(http://www.jdwg.org/kihonho-kitai-youbou-201910/ 2019年11月22日時点)。筆者はこれに強く賛同します。
 認知症の予防について語り合うより、長生きすることとともに認知症になることも歓迎され、認知症とともに安心して暮らすことができる街を作ることの方が大切です。予防のための研究をすすめることは大切なことかもしれませんが、それはまだ専門家の仕事の中にとどめる時期なのではないでしょうか。認知症のある人が言葉を紡ぎ、本人を中心とした議論がようやく生まれつつあるこのタイミングで予防という言葉を広めることは、認知症へのスティグマを減らすための取り組みに水をさすことになりかねません。
 人が認知症の予防に関心を持っているということは、裏を返せば認知症を恐れている人が多いということを意味します。将来、メディア、広告から認知症の予防にまつわる情報が減ったとしたら、それは認知症へのスティグマが減り、認知症が人々に適切に理解され、「認知症になっても安心して暮らせる街」「安心して認知症になれる街」、さらには「認知症だからこそ役割を果たせる街」が実現された時と言えるのかもしれません。

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